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<<   作成日時 : 2008/09/19 23:08   >>

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福島県立大野病院事件判決の意味
     出河雅彦   ( 「世界」2008.10)
 直接的な事故原因の背後にはどのような背景要因が絡んでいたのか。原因究明、再発防止のための第三者機関創設に向けての課題は何か。
画像 八月二〇日午前10時、全国の医師が固唾を呑んで見守っていた福島県立大野病院事件の判決公判が福島地裁(鈴木信行裁判長)で開かれた。裁判所は業務上過失致死罪と医師法(異状死届け出義務)違反に問われていた加藤克彦医師(四〇歳)に無罪を言い渡した。日本産科婦人科学会は判決を受けて幹部が会見した。常務理事の岡井崇・昭和大教授は「医療、医学をよく知らない警察が最初に捜査を担当したことが問題。専門家が中心となった第三者機関がベストだと思う。そういったところで最初から調査していれば、刑事訴追ということもなかったのではないか」と語った。
 しかし、この医療事故の捜査は産婦人科医で構成された福島県の事故調査委員会が作成、公表した報告書がきっかけに始まった。捜査に先立って医療者の目で評価が加えられていたのである。
■事故調査委員会が誤りを指摘
 事故は二〇〇四年一二月、県立大野病院(福島県大熊町)で胎盤が子宮口を覆う「前置胎盤」と診断されていた女性(当時二九歳)の帝王切開手術で起きた。
 大量出血の危険がある前置胎盤では帝王切開が選択されるが、前回の出産も帝王切開だと、胎盤の組織が子宮内に入り込んではがれにくくなる「癒着胎盤」という、さらに厄介なリスクを負う可能性が出てくる。子宮口を覆った胎盤の一部が子宮の前壁(お腹側)にある帝王切開創痕にかかると、癒着しやすいからである。癒着胎盤の事前診断は難しいが、ひどい癒着があることが明白な場合は大量出血の危険性があるため、胎盤の剥離は試みてはならないとされている。
 この女性も第一子を帝王切開で出産していたが、術前検査で胎盤が子宮の後壁(背中側)に付いていたため、加藤医師は前回帝王切開創痕に胎盤がかかっている可能性はないと判断していた。
 帝王切開手術には、助手の外科医と女性の全身管理を担当する麻酔科医も加わった。赤ちゃんを取り出した後、加藤医師は手をつかって胎盤をはがし始めたが、途中からはがれにくくなった。そのため、手術用のはさみ(クーパー)を便って胎盤をはがした。その後、出血が増え、加藤医師は子宮にガーゼを詰めて手で圧迫するなどして止血を試みた後、子宮そのものを摘出する手術に移行した。子宮摘出から約三〇分後、心臓が小刻みに震えて血液を送り出すことができなくなる心室細動に陥り、女性は死亡した。病理解剖は遺族の同意が得られず、死因は出血性ショックと診断された。
 加藤医師の説明から過誤でないと判断した病院長は警察署へは届けなかった。ただし、大野病院の産婦人科医は加藤医師一人だったので、「院外の専門家による検証が必要」とする判断から県が事故調査委員会を設置した。別の県立病院と民間病院の部長、福島県立医大講師の産婦人科医三人が委員となった。
 調査委員会は二〇〇五年三月、@癒着胎盤を無理にはがしたことA大量出血に対応する医師の不足B輸血の遅れを事故の要因と結論づける全文六ぺ-ジの報告書をまとめた。のちに裁判で最大の争点となる@については、「胎盤を手ではがしにくくなった時点で癒着胎盤と考えねばならない。クーパーを使う前にはがすのをやめ、子宮摘出にただちに進むべきであったと考える」と指摘した。県は同年六月、加藤医師を減給(一〇分の一)一カ月、監督責任のある院長を戒告とする懲戒処分を行った。
 報告書の公表で事故を知った福島県警は二〇〇六年二月一八日、業務上過失致死と医師法違反の疑いで加藤医師を逮捕。福島地検は三月一〇日、「癒着胎盤の剥離を継続すれば大量に出血し、生命に危険が及ぶおそれがあったから、直ちに胎盤の剥離を中止して子宮摘出術等に移行し、生命の危険を未然に回避すべき注意義務があった」として起訴した。
 二〇〇七年一月に始まった公判で検察側は、田中憲一新潟大教授が警察の依頼で作成した鑑定書を証拠申請した。その鑑定書も県の調査委員会報告書と同じく、剥離の中止を指摘するものだった。田中教授は婦人科腫瘍が専門で、若い頃に勤務した病院でお産を扱った経験があったが、自分で癒着胎盤の剥離をしたことはほとんどない。法廷で、「用手剥離が困難になったら、それ以上無理に剥離をせず、子宮摘出に移行することが一般的な考え方と思っていた」と証言した。
 これに対し弁護側は、東北大学の岡村州博(くにひろ)教授、宮崎大学の池ノ上克教授という、日本産科婦人科学会の周産期委員長経験者を証人に立てた。二人とも、妊娠、出産に関する医療の専門家である。
 岡村教授は「三三年間に約一万例の出産に立ち会い、その中で前置胎盤症例は一〇〇〜二〇〇例、うち癒着胎盤と診断できる症例は約一〇例あった。その一〇例のうち、開腹して子宮を見ただけで癒着胎盤と診断できた一例は分娩後に胎盤をはがさず子宮摘出したが、残りの症例ではすべて胎盤をはがした」と証言した。
 大学病院だけで一六年間に約四七〇〇例の分娩にかかわった経験を持つ池ノ上教授はいったん始めた胎盤剥離を途中で中止したことは一度もなかったと証言し、その理由を「剥離をして胎盤が除去できたら、多くの場合は子宮筋層が収縮して、出血のもとどなっている母親側の血管を押しつぶしてくれるという止血の機序を期待する」からであると説明した。
 福島地裁は経験豊富な弁護側証人の見解を重視した。
 判決は「臨床に携わっている医師に医療措置上の行為義務を負わせ、その義務に反したものには刑罰を科す基準となり得る医学的準則は、当該科目の臨床に携わる医師が、当該場面に直面した場合に、ほとんどの者がその基準に従った医療措置を講じているといえる程度の一般性あるいは通有性を具備したものでなければならない」と指摘したうえで、「癒着胎盤であると認識した以上、直ちに胎盤剥離を中止して子宮摘出手術等に移行することが本件当時の医学的準則であったと認めることはできないし、本件において、被告人に、具体的な危険性の高さ等を根拠に、胎盤剥離を中止すべき義務があったと認めることもできない」と無罪判決の理由を述べた。
 一審は、判決で「医学書の一部の見解に依拠した」とまで言われた検察側の完敗に終わったが、そもそも事故調査委員会が「剥離を止めるべきだった」という断定的な結論を出していなければ、捜査当局は動かなかった可能性がある。医療界は警察、検察の専門性の欠如を批判するが、事件の種は医療者が播いたのである。
 判決直後に開かれた被告・弁護団の記者会見で、「報告書の内容に違和感を持たなかったか」と尋ねられた加藤医師は「違和感があり、当時の事務長に抗議というか話をしたが、患者さまの補償のためということを盾に、何も言わせていただくことができない状態になった。実際どうだったのか、県病院局や調査委員会の方々に聞いてみたい」と答えた。加藤医師の起訴後間もなく「医療行為に関連した死亡や障害に対する無過失補償制度がないから、医療事故に備えて加入している損害賠償保険の保険金を支払ってもらうためには、何らかの問題(過失)があったとする必要があった」という話が、福島県立医大や日本産科婦人科学会の複数の関係者から聞こえてきた。医学的に見れば報告書の評価は適切とは言えない。しかし、県から誤りを認めるよう要請されたので仕方なかった--。そういう趣旨の説明を聞いて、筆者はそれこそ「違和感」を覚えずにはいられなかった。
 報告書は調査委員の実名が記されたうえで、公表されているのである。自らの医学知識に基づく見解を曲げることをためらわないような医師たちが、専門家として他者の診療行為を評価しているとは信じられなかった。全国の医師から抗議の声が上がる中、「こんな報告書を作るから警察が動いたのだ」という同業者の非難をかわし、責任を転嫁するための言い逃れのようにも聞こえた。
 福島県病院局は判決後の会見で、賠償目的で報告書をまとめたという見方を否定した。こちらの説明が正しいとすると、調査委員会は純粋に医学的評価をした結果、「剥離の中止」のほうが望ましかったと結論づけたわけだ。判決文の一節を借りれば、「臨床上の標準的な医療措置」がどんなものかを理解しない医師が調査をしていたことになるのではないか。
■事故調査の問題点
 大野病院で亡くなった女性の父親である渡辺好男さん(五八)は判決後の記者会見で「事故の原因を追究して、反省すべき点は反省し、再発防止に生かすべき」とするコメントを発表した。そして、「ハイリスク患者や、連携して治療が必要な患者の情報の病院間での共有」などを求める要望書を県に提出した。
 医療事故には複数の医療者がかかわり、直接的な原因の背後に多くの背景要因が絡んでいることが多い。それを一つひとつ解明し評価を加えていかなければ、本当の再発防止につながる調査とはならない。大野病院事件では、胎盤剥離の妥当性に注目が集まったが、麻酔科医の措置を含め、大量出血への対処法に問題がなかったかどうかはあまり省みられていない。
 約四時間半かかった手術の間、あらかじめ準備した赤血球濃厚液五単位(血液1リットル中の赤血球に相当)は便い切り、血液センターに追加輸血を発注している。しかし、総出血量約二万mlに対し、輸血と輸液の総計は約一万五〇〇〇mlにとどまった。心臓の機能を弱らせないためには循環血液量を確保することが大事だが、それはすべて輸血で補う必要はなく、ある程度は輸液でカバーできるとされる。
検察側証人として出廷した麻酔科医は次のように証言した。
1 輸液や輸血を行う点滴ラインをあらかじめ二本確保し、出血量が増えた後は注射器で輸液を強制的に押し込むパンピングという方法も併用したが、新たなラインを確保することはしなかった。
2 血管が収縮する昇圧剤を連続して使用したので、末梢の静脈はぺちゃんこになり、新たなラインを確保することは難しかった。鎖骨下などの中心静脈でのライン確保は近くの動脈を刺す恐れがあり、危険を冒してまでできなかった。
3 手術台を傾けて患者の頭のほうを下げ、心臓や脳に血液を集める「ヘッドダウン」は思い浮かばなかった。
 麻酔科医が帝王切開に立ち会った経験は約三〇例。癒着胎盤の経験はなかった。
 県の事故調査委員会の報告書も、「出血当初より輸液量は少なく循環血液量の不足が持続」「人手があれば輸液ルートをもっと確保し輸液量を十分に投与できた」とライン確保の問題点は指摘しているものの、具体性に欠ける。使用薬剤の影響などを具体的に掘り下げて分析することもしていない。これは、調査委員会のメンバー構成が産婦人科医のみに偏っていたことと無関係ではないだろう。
 このほか、病院の助産師が術前に「大きな病院に転送したほうがいいのではないか」と加藤医師に助言していたことも裁判で明らかにされた。術前診断で癒着胎盤を疑わせるデータはなかったとしても、通常よりリスクの高い症例であったことは間違いない。施設当たりの分娩数が少ない日本では、母体が危険にさらされるような臨床経験を持つ医師があまりいないことが、国の研究班によってかねてから指摘されていた。事故調査委員会は、大野病院の診療体制や医師の対応能力も評価したうえで、この女性の帝王切開を行ったことの当否を検討し、具体的な再発防止策の提言とその実施状況のフォローまで行うべきではなかったか。
 加藤医師が逮捕された直後、筆者は県病院局に「どのような再発防止策を立案し、実行してきたのか」と尋ねた。すると、ハイリスク患者の取扱い指針などは作っておらず、報告書を県立病院に配布しただけで現場に対応を任せきりだった、という答えが返ってきた。
 福島県の名誉のために言っておけば、同県の事故調査が問題だらけであったわけではない。朝日新聞は〇五年暮れに都道府県立病院の事故調査の実態を調べるアンケートを行い、結果を加藤医師逮捕の六日前の紙面で紹介した。調査への第三者の関与と調査報告書の公表をルール化していたのは四県のみで、その一つが福島県だった。事故調査における透明性の確保を同県が強く認識していたことは間違いない。しかし、事故調査の意味や目的を本当に理解していたとは思えない。
■医療版事故調査委員会の課題
 大野病院事件を機に、医療事故の原困を調べる医療版事故調査委員会創設に向けた検討が本格化した。医療現場への刑事司法の介入を減らしたいという医療界の思いが事故調構想の推進力となっている。しかし、第三者機関が医療事故の調査を行うものの、「重大な過失」は警察に通知するという厚生労働省案に対しては、「警察通知の範囲があいまいだ」との反対論も根強い。医療界の意見が分かれる中、参議院第一党の民主党は院内事故調査を基本とする案をまとめている。
 医療版事故調がどのような形で実を結ぶにせよ、評価能力を備えていない医療者が調査を行えば、原因究明や再発防止に役立たないばかりか、特定の医療者に対して医療水準以上の注意義務を課し、その医療者が不当に法的責任追及の矢面に立たされる危険がある。それが、今回の事件の最大の教訓ではないだろうか。
(いでがわ・まさひこ朝日新聞編集委員)


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